特筆性
特筆性とは、重複表現についてのデネブさんの認知言語学的・言語行為論的分析において見定められる概念である。特筆性は発話行為や会話の妥当性を担保する。わかりやすく言えば、ある言明が「当たり前」である(非特筆的)かそうでない(特筆的)か、ということである。
特筆-非特筆という軸は、いろいろな言い換えができる。異化-同化、異常-通常、特殊-普遍、出来事-性質、命題-項など。
例
- 頭痛が痛い――「頭痛」それ自体特筆的なので、余剰表現である。
- 体重が重い――「体重」それ自体は特筆的ではないので、十全表現である。
- 馬から落馬する――「落馬」それ自体特筆的なので、余剰表現である。
- 像を彫像する――「彫像」それ自体特筆的なので、余剰表現である。
- 落雷が落ちる――「落雷」それ自体特筆的なので、余剰表現である。
重複表現の議論においては、特筆性は余剰しない。余剰するのは表現の方である。すなわちある言明について「特筆性が余剰している」という分析は無効であり、あくまで「期待される特筆性に対して表現が余剰している」と言わなければならない。例えば、「頭痛」は特筆的である。しかし「頭痛が痛い」は特筆的でない。頭痛が痛いのは当たり前なのだから、頭痛という特筆性に対して表現が余剰している。
一方で、重複表現の議論から離れればその限りではない。「落雷があった」という言明と「すぐ近くで落雷があった」という言明とを比較すると、明らかに後者の方が特筆性が高いのであり、その意味において余剰とか不足とか言うこともできなくはない。
認知言語学における焦点化は、ここでいう特筆にあたるかもしれない。つまり「頭痛が痛い」の非許容性は焦点が複数の表現に分散していることによる。例えばこれを「頭痛がとても痛い」とした場合、頭痛-痛いという関連性においては依然として余剰表現であるものの、全体としては特筆的であるために、比較的許容度が高いことだろう。それは「とても」の部分に発話の焦点が少なからず移行するからでもある。
頭痛と腹痛とが同時に起こっているような状況では、「頭痛が痛い」の許容度は上がるだろう。この場合、「痛い」ということと「頭痛」ということの特筆性が分離している。つまり、まず「痛い」という特筆性とその表現がそれ自体として機能し、どこが痛いのかという特筆性への期待において「頭痛が」という表現がそれを満足する。「(腹痛と比較して、特に)頭痛が」「痛い」ということである。
「体重が重い」において、「体重」は特筆的でない。それは、体重は誰でも持っている普遍的性質であるからだとも言えるし、誰でも体はある程度重いからだとも言える。したがって「体重が重い」となって初めて特筆的となる。このような場合、一般に重複表現とは看做されない。
「人生を生きる」のような場合は少々特殊である。一見すると「体重が重い」と似たケースにも思えるが(人生は誰でも持っている普遍的性質である)、「生きる」が加わったところで特筆性がほとんどないので、それは「どのような」人生なのか、あるいは「どのように」生きるのかという特筆性への期待が自然と起こるはずである。特筆性がそもそも閉じていないため、表現は余剰どころか不足せざるを得ず、重複表現の議論からは外れる。